LOGIN翌朝。
リリア・エヴァレットは見知らぬ天井を見上げながら、しばらく無言だった。「……ここどこ」
ぼんやり呟く。
数秒後、思い出した。 ヴァルハルト公爵邸。 銀狼公爵。 契約結婚。 呪い。 昨夜の会話。 そして『……死にたくない』
あの言葉。
思い出した瞬間、胸の奥が妙にざわついた。「……重症ね」
自分で言って、自分で顔を覆う。
昨日会ったばかりの相手だ。しかも第一印象は最悪。 なのに、あんな顔を見せられたら、放っておけるほど冷たくはなれない。「はぁ……」
ベッドから起き上がる。
広い部屋だった。 淡い生成り色のカーテンに柔らかな絨毯、磨かれた家具。 どう見ても客室ではない。リリアが目を覚ましたのは、翌日の昼近くだった。 最初に見えたのは、白い天井。 次に感じたのは、全身の重さ。 まるで鉛を詰め込まれたみたいに、指先ひとつ動かすのも億劫だった。「……う」 小さく声を漏らす。 すると、すぐ近くで椅子が鳴った。「リリア様!」 ミアの声だった。 視線を向けると、栗色の髪の侍女が今にも泣きそうな顔で駆け寄ってくる。「よかった……! 本当に、よかったです……!」「ミア……」 声が掠れる。「水を……」 ミアが慌てて水差しを取る。 上体を起こそうとしたリリアを、そっと支えてくれた。 冷たい水が喉を通る。 それだけで少し、生き返った気がした。「私、どのくらい……」「一晩と少しです」「そんなに」 思った以上だった。 月華の力。 やはり代償は軽くない。 黒霧を浄化した瞬間、身体の奥から何かを持っていかれた感覚があった。 あれは、ただの疲労ではない。 もっと根本的なもの。 命に近い何か。「……レオン様は?」 尋ねると、ミアの表情が少し強張った。「閣下は……」 その反応に、胸がざわつく。「何かあったの?」「お身体は大丈夫です。ただ……」「ただ?」「昨夜から、ほとんどお休みになっていません」 リリアは眉を寄せた。「また無理してる」「はい……」 ミアも困ったように頷く。「リリア様が眠られた後、王宮から使者が来たそうです」
「リリア!」 遠くで、誰かが呼んでいた。 低くて、掠れていて、必死な声。 普段なら決して取り乱さない人の声。 ――レオン様? そう思ったのに、返事ができなかった。 身体が重い。 水の底へ沈んでいくみたいだった。 寒い。 けれど、どこかだけが温かい。 背中。 肩。 手。 誰かに抱きしめられている。「目を開けろ、リリア」 命令みたいな声。 けれど震えていた。 リリアは薄く目を開けた。 ぼやけた視界の中に、銀色が見える。 月明かりみたいな髪。 苦しそうに歪んだ顔。「……レオン、様」 声が掠れた。 自分の声ではないみたいだった。「喋るな」「……黒霧は」「消えた」「よかっ……」「よくない!」 怒鳴られた。 びくりとする。 レオンの声が、こんなにも荒くなるのを初めて聞いた。「何をした」「……」「何をした、リリア」 責める声ではなかった。 怖がっている声だった。 失うことを恐れている声。「……浄化、しました」「約束しただろう」「ごめんなさい」「謝るな」「でも……」「謝るな!」 腕に力がこもる。 痛いほどではない。 けれど、逃がさないと言われているみたいだった。 リリアはぼんやりと彼を見上げる。 首筋にはまだ黒い侵食が残っている。 それを見て、胸が痛んだ。「レオン様も……痛いでしょう」「今は俺の話ではない」
翌朝。 リリアはいつもより早く目を覚ました。 まだ空は淡い青色で、屋敷の中も静まり返っている。 小鳥の声。 遠くで鳴る鐘。 朝の冷たい空気。 本来なら穏やかな一日の始まりのはずだった。 けれど、胸の奥は重い。 昨夜の言葉が何度も蘇る。『お前があの男に笑うのは、気に入らない』「……思い出すな、私」 枕に顔を埋める。 駄目だ。 今はそれどころではない。 レオンの呪い。 月華の代償。 第二王子セドリック。 考えなければならないことは山ほどある。 それなのに、どうしても銀色の瞳と低い声が頭から離れない。「……本当に、ずるい人」 ぽつりと呟く。 本人に自覚がないのがなお悪い。 リリアは深く息を吐くと、ベッドから起き上がった。 今日やることは決めている。 王宮で渡された薬学書を読む。 そして、公爵家の図書室にある黒霧関連の本をもう一度調べる。 月華の真実を見つけるために。 ◇ 朝食室へ向かうと、すでにレオンがいた。 いつものように背筋を伸ばし、静かに茶を飲んでいる。 黒い軍服ではなく、白いシャツに濃紺の上着。 それだけで少し柔らかく見える。「おはようございます」「おはよう」 返事が自然になってきた。 最初はあんなに間があったのに。 小さな変化が、少し嬉しい。 リリアは席につく。 パンを取ろうとして、ふとレオンを見る。 顔色は悪くない。 昨夜の熱は下がったようだ。「体調は?」「問題ない」「その言葉、禁止にしたはずです」「……悪くない」 言い直した。 素直だった。 リリ
王宮からの帰り道。 馬車の中には、奇妙な沈黙が落ちていた。 向かいに座るレオンは窓の外を見ている。 銀色の髪が夕陽に淡く染まり、長い睫毛が頬に影を落としていた。 絵になる。 悔しいくらいに。 けれどリリアは、その横顔を素直に綺麗だと思えなかった。 気になっていたからだ。 王宮でセドリックが言った言葉。『それは嫉妬だよ』 嫉妬。 まさか。 レオンが。 自分に?「……」 ありえない。 そう思う。 でも、今日のレオンは明らかに変だった。 セドリックから本を渡された時。 研究所へ誘われた時。 リリアを背後に隠した時。 あれは、ただの護衛だったのだろうか。「……レオン様」「なんだ」 返事は早い。 でもこちらを見ない。「本当に怒ってませんか?」「怒っていない」「じゃあ、どうしてずっと窓の外を見ているんですか」「景色を見ている」「嘘が下手ですね」 レオンがようやくこちらを見た。 少しだけ不服そうな顔。「嘘ではない」「では、半分本当で半分嘘です」「……面倒な言い方をする」「レオン様ほどではありません」 即答すると、彼は黙った。 言い返せないらしい。 リリアは小さく息を吐いた。「研究所のことなら、勝手に行ったりしません」「……別に、そういう意味ではない」「ではどういう意味ですか」 沈黙。 馬車の車輪が石畳を走る音だけが響く。 やがてレオンは、低い声で言った。「殿下には近づきすぎるな」「理由は?」「危険だ」「何がですか」「分から
「だから興味がある」 第二王子セドリックの言葉は、どこまでも穏やかだった。 王宮の庭園。 噴水の水音。 花々の香り。 優雅な空間。 けれど、リリアの胸の奥には説明しづらい違和感が残っていた。「私にですか?」 思わず聞き返す。 セドリックは小さく笑った。「もちろん」 さらりと言う。「レオンを変えた人だからね」 リリアは言葉に詰まった。 そんな大層なことをした覚えはない。 むしろ毎日のように口論している。 怒って。 呆れて。 心配して。 その繰り返しだ。「変えたというほどでは……」「本人は認めないだろうけど」 セドリックは肩を竦めた。「彼を昔から知る人間には分かるよ」 昔から……。その言葉に少し興味を引かれる。「レオン様は昔、どんな方だったんですか?」 セドリックは一瞬だけ目を細めた。 懐かしそうに。「今よりずっと感情豊かだった」 意外だった。「笑うこともあった、怒ることも、無茶もした」 リリアは思わず目を丸くする。 まるで別人だ。 今のレオンからは想像できない。「信じられない顔をしているね」「だって……」「分かるよ」 セドリックが苦笑する。「今の彼しか知らなければそう思うだろう」 その時だった。「殿下」 低い声。 聞き慣れた声。 振り向く。 そこにはレオンが立っていた。 黒い軍服。 銀色の髪。 そして、いつもより明らかに機嫌が悪そうな顔。 リリアは思わず瞬きをした。 最近分かるようになった
王宮へ向かう朝は、驚くほど快晴だった。 雲ひとつない青空。 王都の街並みが朝日に照らされている。 だが、リリアの気分は晴れなかった。「……緊張する」 馬車の中で呟く。 向かい側。 レオンはいつものように無表情だった。 黒い軍服。 銀色の髪。 完璧な姿勢。 まるで緊張という言葉を知らない人みたいだ。「レオン様」「なんだ」「緊張しませんか」「別に」 予想通りの返答だった。「どうしてですか」「何度も来ている」「そういう問題じゃありません」 王宮である。 国で一番偉い人たちがいる場所だ。 薬草畑や診療所とは訳が違う。 レオンは少しだけ考えた。 そして――「お前がいるからな」 と言った。 リリアは固まった。「……え?」 レオンは窓の外を見ている。 いつも通り。 何でもない顔。 だが、今。 確かに変なことを言った。「それはどういう意味ですか」「そのままだ」「説明になってません」「そうか」 そうかじゃない。 心臓が少しうるさい。 本人は全く気づいていないらしい。 本当に困る。 最近ますます困る。 ◇ やがて馬車は王宮へ到着した。 巨大な白亜の宮殿。 高い塔。 広い庭園。 豪華な噴水。 初めて見る光景に、リリアは思わず息を呑む。「……すごい」「慣れる」「無理です」 即答だった。 レオンが僅かに口元を緩める。 最近、本当に少しだけ笑うようになった。